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久しぶりに更新したかと思ったらイヤな話ですが、今日は「非」っていう漢字の使い方が時々気持ち悪い件について話したいです。前からずっと気になってたんですよ。
「非」っていう漢字は、これ一文字でなにもかもを否定されちゃったような気分になる、非常に強い漢字です。あ、この「非常に」もそうだよね、「常でない」とか、「尋常じゃない」「普通じゃない」の「じゃない」って気分を、「非」っていう漢字を使うことで、その強さまで表してる気がしませんか? 「非」だけじゃなくて「無」もそうですし、「否」もそんな気分です。「未」はちょっと優しい気がします。 で。今日気になったのは「人非人」っていう言葉です。ちなみにYahooさんの辞書で「人非人」は「にんぴにん」と読み、次のように定義されてるみたいです。 1 人道に外れた行いをする者。ひとでなし。 2 インドの俗神、緊那羅(きんなら)の通称。その姿が人に似て人ではないのでいう。 使う時にはだいたい1の意味で使いますね、姿が人に似てるけど人でないものについて話をすることはあんまりないような気がします。 「人非人」は「にんぴにん」て読むのが多分一般的なんだと思いますが、私としては「ひとでなし」と読みたいです。そっちの方が気分が出るでしょ。 さて、「人非人」ですが、この熟語はこのままだとあまりに漢語的です。いや、むしろほとんど漢文です。ですから、「書き下し文(でいいんでしたっけ? 読み下し文? いや、書き下しだった気がします)」に致しましょう。「人ニ非ザル人」ですね。「ひとにあらざるひと」と読みます。 「あらざる」は「あり」+「ず」です。丁寧に言うと、そこにあるとかないとかの「ある」、の古典的な形(古語)であるところの「あり」、の未然形「あら」。と、打ち消しの助動詞「ず」、の連体形「ざる」、の合体した形、で、「あらざる」ですね。 さらに丁寧に説明すれば、「あり」は、打ち消しつまり否定する気分の助動詞がくっつくから、「あり」という言葉を使ってるけど、ほんとは気分的には「まだない」んですよ。だから未然形を使うんですよね。で、「ず」の方は、後ろにさらに「人」っていう名詞(体言の一種でいいんですかね?)がくるから、「体言にくっつく(連なる)形」をとります。や、こんなんなんとなくな気分でいいんですけど、説明できそうな気がしたから、つい。間違ってたらすみません。しかももし受験生の人が見てたらごめんなさい。 この、「あらざる」って、「あり」と「ず」が一緒にいる形だから、気分的には英語の「is not」と同じじゃないですか? さてここで、「あらざる」の意味っていうか気分がわかったところで、漢字に戻りましょう。「非ざる」。 ねぇねぇ、おかしくないですか? 何がって、漢字の「非」は、それ自体で「打ち消し」の意味を持ってるんですよ。それに、さっき確認したところ、「あらざる」は「あら」+「ざる」で、「ざる」の方が「打ち消し」つまり否定を表してるって。つまり、否定の意味を持ってる漢字に、否定の意味を表す助動詞をくっつけた形、それが「非ざる」。変でしょう? 「is not」の「not」の部分だけが送り仮名に出てる形、でも漢字の意味としては「非」が「not」。つまり「あらざる」って、「not not」です。……気持ち悪いと思いませんか? あんまり思いませんか? 私は若干気持ち悪いです。 もし、この解釈とか品詞の意味とか漢字の意味とかむしろ品詞分解の仕方とかが間違ってたら、ごめんなさい。打たれ弱い私に、こっそりあるいは優しく教えてやってください。ていうか文自体が意味不明だったらごめんなさい。 あぁ、もし万一、間違って紛れ込んでこられた受験生の方がここを見てらしても、あまり文章は鵜呑みにしないで、ご自分で辞書ひいたり先生に訊いたりなさってくださいね。この日記、ごくたまにですけどかぎかっこの話とか文学作品の話とか真面目な言葉を使ったりすることがあるし、今日に至っては品詞分解だとか連体形だとかいう言葉が頻出してますから、絶対に受験生みたいな方は紛れ込まないって言い切れないところがあるのですよね。ていうか、「絶対」なんて、多分どこにもないですもん。……この「「絶対」なんて言い切れることなんかどこにも存在しないもん、絶対」っていう言いようもまた大きな矛盾ですよね、どうかなこういうので説得にかかろうとするやつとか。 最後に、「非ざる」の「ざる」はただの送り仮名で、「非」一文字が「あらざる」っていう意味なんだってことはわかって、この話を展開したことをお断りするとともに、万一この文章を読んで混乱しちゃったよって方がいらした場合のために、ごめんなさいって謝っておきます。 PR 私がちょっとなじめない日本語、パート2をお送りします。今日の私がちょっとなじめない言い回しは「ただでなくても」です。正しくは、「ただでさえ」あるいは「そうでなくても(~~でなくても)」ではないでしょうかね。 1。「ただでさえ(そうでなくても)お馬鹿さんなのにその上頭に辞書をぶつけるなんて(もっと馬鹿になっちゃうわ)」。 「ただでさえ」という使い方をする場合の「ただ」は、「通常の状態」とか「普通」とか「何もない状態」とか、そういった意味合いです。つまり、「ただでさえ」は、「通常の状態においてさえ」というような意味合いで使われるということです。例1の場合なら、「辞書に頭をぶつけない状態にあってさえも」を表しています。 1’。「ただでなくてもお馬鹿さんなのにその上頭に辞書をぶつけるなんて(もっとお馬鹿さんになっちゃうわ)」。 「ただでなくても」は、「「ただ」でない状態」ですから、「「頭に辞書をぶつけない状態」でなくても」つまり「頭に辞書をぶつけている状態であっても」を指すということが分かると思います。この例1’では、頭に辞書をぶつけるともっとお馬鹿さんになる(とこの発話者は言っているのでひとまずそれを鵜呑みにするとして)のですから、「「頭に辞書をぶつけていても」お馬鹿さんなのにその上頭に辞書をぶつけるなんて(もっとお馬鹿さんになっちゃうわ)」と、くどいというか意味の通りにくい文章だということですね。書いていても何がなんだか分からない感じがします。 051109
今日は「~~にしか過ぎない」という表現が私に気持ち悪く聞えることについて少し。本当にそれだけの話。
最近よく目に、あるいは耳にする表現ですが、日本語として正しくは、「~~に過ぎない」あるいは「~~でしかない」という形だと思うのですよ。「~~にしか過ぎない」って、ちょっとくどいというか、「大したことない」という表現が文章内で重複してるよねと思うのでした。
『』と「」の使い分けって、一般的にはどういうものなんでしょうか。私は日本文学をやっている関係上かどうかは分かりませんが、一応日々苦心してポリシーを持って使い分けようとしては挫折しています。
基本的には、「」の中には、単行本とか雑誌とかのタイトルでない作品名を入れ、そして『』の中には単行本とか雑誌とかのタイトルを入れます。これを「小さい作品名」『大きい作品名』とここで便宜上呼びます。 たまに短編集的小説作品の単行本で表題作というものが存在することがあります。えーと、本に収録されている作品の一つが本自体と同じタイトルだったりする、あれです。例えば『舞姫』という本の中に「舞姫」と「(忘れましたすみません)」と「ふみづかひ」という三本の短編小説が収録されている場合。これは中の作品を「」でくくり、本自体を『』でくくります。ちょうど今私が上に書きましたように。逆に、同じタイトルが並んでいるのを見た時は、「舞姫」が作品名で、『舞姫』が本の名前なんだなっと、判断するわけです。どうでもいいですがここでいう『舞姫』「舞姫」とは、森鴎外の作品のことを指します。 小学校で初めて「」と『』の使い方を習った時を憶えていらっしゃるでしょうか。「」は人物が喋る時に使う、『』はその会話文中に出てくる会話文に使う、と、習いました。もう少し敷衍して、「」の中に「」を登場させる時、『』を使う、と。例えば、「昨日、うちの妹が『私今日はとても機嫌がいいの。』って言いましたのよ。」「私、『ケータイ』ってまだ全部の機能を使いこなせないのですわ。」などのように使います。これは、「『』」という序列があるということと、ここでは呼びます。 上にあげた二つの使い方、つまり、「小さい作品名」『大きい作品名』という使い方と、「『』」序列を尊重するという使い方、ですが、たまに困る時があります。会話文の中に小さい作品名を登場させる時にはどうしたらいいんだ、ということです。先にあげた使い方では、『』の中にある作品名に別の作品名が出てきた時には「」を用いますから、「『』」という序列(というのもおかしいですが)が存在しません。『川端康成「雨傘」の解釈』(そんなタイトルの書物は存在しませんが)とか、アリです。しかし、「『』」という序列に従って文章を作っている時、会話文の中に小さい作品名が登場した時にどうしたものか、迷います。「「舞姫」読みまして?」では「『』」という序列を壊しているし、「『舞姫』読みまして?」では、本を指しているのかその本の中の作品を指しているのか、字面からは見当がつきません。 だから私は、普段はもう「『』」という序列をないものとすることにしています。つまり、「小さい作品名」『大きい作品名』に準拠しているということになります。先に習ったのは「『』」の序列を大事にすることだったので、若干心が痛みますが、仕方ないですね。 これが、苦心した末の妥協で、毎回「」や『』を登場させようとする度に考えては妥協します。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
……という和歌があります。細かい文法とか技術とかはとりあえずこっちに置いておきましょうかね。ちょっとだけ言えば、「せかるる」は「割かれる(さかれる)」で「あはむとぞ思ふ」は「逢おうと思う」を「ぞ」で強調して「必ず逢おうと思う」みたいな感じです。意味は次のような感じです。 「川の流れは速いから、急流は岩に堰き止められて二方に別れてしまう。でもちょっと下流に行けばまた一つに合わさるように、今は別れてしまう二人だけど、将来必ずまた一緒になりたいと、思う」。みたいな。「逢はむ」でなぜ「一緒になる」という訳になるかといえば、この歌が詠まれた当時、「逢ふ」とは、「夜に逢う」「エッチする」つまり「結婚する」というような意味を持っていたから、ですね。 上の句全体が「われても」を導く序詞らしいです。つまり、言いたいことは後半で、前半はその後半を美しく持ってくるための飾り。なるほどね。「滝川の」の後ろに「ように」とつければ、そんなに難しくは思えなくなる歌ですね。 でね、この歌なんですけど。どうにも悲しく、後に一緒になれない印象がしませんか? 私はどういう背景でこの歌が詠まれたのか知りませんからそんな印象を受けるのだと思いますが。アレですよ、フラグに見える、のです。「フラグ」というのは……例えば「「必ず帰る」と言って出征した軍人さんは帰ってこない」とか「「一年で帰る」といった夫は七年経つまで帰らなくて妻は待つ間に死んでしまった」といったような。 物語の経済とか類型とかからして、強い決意、というのは必ず破れる、という風に決まっているような感じです。とか思うと、あの世では必ず、とか生まれ変わったら必ず、とか、そういう決意に見えてきませんか。 「今は別れても将来きっと一緒になろうと思う」という強い気持ちというか決意というのは、絶対逢えない、二度と逢えない、の前振りになっているように見えるのです。二人の行く先はもう違えられてしまった、今日を最後に、二人が逢うことはもうない、でも、別れたくない気持ちは確かにここにあって、せめて言葉だけでも、また逢えると、言いたい。そんな気持ち。「違えられて」は「たがえられて」と読みますし、「ここに」は「心に」みたいな。 この歌を詠んだ崇徳院が気の毒な人だからそう見えるのかな。崇徳院は、子どもの時からお父さんに疎まれてた気の毒な感じで、即位してからも上皇になってからも気の毒ーな感じでしかも後に弟に讃岐に流されてそこで頓死したのちは早い時期から怨霊化するという気の毒ーーな人生を送った人です。配流になる直接の切っ掛けになった事件は「保元の乱」です(多分)。平清盛とか源頼朝とか出てくる頃の源平の争乱の直前というか前段階というか、そんな時代。 時期的に、この歌と配流になったのとは関係ないみたいですけど、900年もあとから見てると、セットになって見えてきたりもして、や、普通に幸せそうーな歌だってあるでしょうけどね、崇徳院て言えば気の毒で「瀬をはやみ」の人、みたいな。 「瀬をはやみ」の歌は、「小倉百人一首」の77番です。「小倉百人一首」以外では、「詞花集」恋上に入ってて、229番なんだそうです。これらの情報はこちらのサイトさまを参考に致しました。勝手にごめんなさい。 「小倉百人一首」(http://www.good-land.com/index.html) あと、「必ず帰る」と言ったのに帰らなかった軍人さんは、例えば「銀河英雄伝説」のケンプ上級大将とか、「はいからさんが通る」の伊集院忍少尉とかがそうです。前者は妻子に、後者は婚約者に宣言して出かけ、戦死します。あ、伊集院忍さんは後に記憶喪失になって帰ってきますけど。「一年経ったら帰る」と言って都に働きに行った夫は、『雨月物語』「浅茅が宿」の夫です。七年経ったら帰ってきます。一応ネタばれくさいので下に置いてみました。 |
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