× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 檸檬の重さは魂の重さ。檸檬の大きさは、魂の大きさ。手のひらサイズの魂。萌え。 PR 梶井基次郎の「檸檬」は、細かいものをつらつら並べるっていう書き方をところどころでします。これがね、印象派っぽい感じです。
今日の話は難しいのにためにならないカオスだから、さくっと後ろの方の二行空きの後まで飛ばしてくださってよろしいです、じゃあなんでここに書いといたかって言うと、自分が後で読み返してわかりやすくするためです。
さて、「檸檬」が書かれたのは、大正十二年です(多分)。掲載が大正十二年十二月だから書かれたのも多分そのくらいじゃないかと。大正十二年といえば、九月一日に関東大震災が発生した年です。 日本の文学シーンは、何回か大きな変革を経て現在に至ってると思います。そのうちの一つがやっぱりこの関東大震災かな。 関東大震災のあとで、文学の枠組みは変化します。それまでは、自然主義的私小説ですね。有名なのは田山花袋「蒲団」。花袋っぽい主人公と花袋の弟子(女子)っぽい女弟子との関わりを描いた小説です。末尾の部分、主人公が女弟子の使っていた蒲団の匂いを嗅ぐという場面があまりにも変態的だから有名なんだと思うんですが、ウザいけど面白い小説です。 自然主義的私小説ってのは、作家がモデルを丁寧に描く、みたいな小説みたいな印象がありますけど、それでいいんでしょうかね。難しく言うと、言葉が内面を代行表象する、だったと思います。小説にはメッセージがあり、それは作者の一番言いたいことや心の内を描いたものである、みたいな? で、関東大震災のあと、この自然主義的私小説っていう枠組みがなくなるのか廃れるのか、下火になって、代わりに出てくるのが新感覚派とかモダニズム文学とかです。 新感覚派ってのは、アレです、横光利一。「蠅」を教科書で読みました。また「頭ならびに腹」、「沿線の小駅は石のように黙殺された」っていう文章出てくるの。「小駅」を「石」に例えてる「ように」の使い方とか。また「小駅」はそこで待つ人を含んでるとかそういう表現。それにこれはどうかわかんないけど、汽車が黙殺してんのが楽しいよね、運転士がっていうより汽車が、黙殺したんですよね、コレ。 新感覚派は、人間の物体化とか物体の擬人化とかが特徴的な書き方って簡単に習ったことがあります。横光利一の他には川端康成もそうです。 また、モダニズム文学が、よくわかんないんですけど、谷崎潤一郎とか習った時にはこれがモダニズム文学だって言われた気がします。またこの梶井基次郎もモダニズム文学? 都市の表と裏が描かれてる印象がありますけど、どうなんでしょう。私は龍胆寺雄(りゅうたんじゆう)の「魔子」が印象に残っています。妹っぽい女子に萌えてた話だったかと。妊娠(懐妊じゃなくて妊娠@斎藤美奈子「妊娠小説」)した女子が死ぬほど不幸な目に遭わずカップルも別れなかったから印象に残ったんだと思うんだけど、なんか別の小説と混ざってるかも。 モダニズム文学って、都市とかモダンガールとか、大正デモクラシーから続いている昭和モダニズム(ネーミング自分だけどなんかかぶってたらごめんなさい)の文化がすげー描かれてます。核家族化が進んで、街の中に女学生やら働いてる女子やらがわらわらいて、電車やら自動車やらでごちゃっとした街、みたいな。またそういう女子と大学行ってる男子が自由恋愛とかして、恋愛の話やら妊娠の話やらが書かれてみたり、さらに男子の浮気を問題視する女性作家がいたり、みたいな、そんな時代のそんな作品群、みたいな。 先生に習った話だと、新感覚派やモダニズム文学ってのは、言葉が表現するのは言葉自体であり、再帰的な表現なのだ、だそうです。前半はわかる。俺の私生活を書くんじゃなくて、俺の言葉を書く、でおk? 後半がよくわからない、再帰的ってなんですか。なんかの説明にそのなんか自体が出てくる、けど循環論法とはまた違う、みたいな説明を見ましたが、よくわかんないです。この辺ももうちょっと勉強が必要なんですね。落語の「頭山」は再帰らしいです。 さらっと文学史の大正末期から昭和初期まで流してみました。梶井の「檸檬」の話をしてたはずなのになんで文学史を自分語で表そうとしてんのかよくわかんないけど多分研究するなら絶対大事。もっと勉強も必要。でも、そんなことより「檸檬」の表現てなんか印象派っぽいよね、っていうことの方が大事って先輩にも言われました。 だから明日は「檸檬」の表現て素敵だよねって話をするかも知れません。
さて、「檸檬」で読書会の2回目です。この読書会は、回を追うごとに尻すぼみになっていくことが決まっている上に、「檸檬」は今日で終了しそうな気配がします。が、頑張って楽しかったところを述べていくことにします。
昨日は「檸檬」の冒頭に出てくる「えたいの知れない不吉な塊」が現代でいうところの抑鬱症状だよねっていう話をしました。その際、例によって何が言いたいかを途中で見失ってしまいましたが、今思い出しました。「神経衰弱」じゃなくて「憂鬱」、特に、「えたいの知れない不吉な塊」のせいで何もかもに無気力になって好きなものにもイライラして、っていう憂鬱は現代の若者に通じる気分じゃないですかね、っていう話でした。 で、今日は、やっぱり現代の人たち(若い子含む)に通じる感覚をもう一つ。それは、廃墟好き。以下、少し長いけど引用しますね。古めの文学作品と思って引かないでください、こんな感じの廃墟画像くだしあっていう説明みたいなもんです。 引用です。 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯ものが干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣のある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。 引用終わりです。 きれいな表通り、区画整理された大通りよりも、ちょっとカオスってる裏通り、洗濯ものとか、窓開け放して畳敷きの部屋が見える、しかも畳は茶色く褪せていて小汚かったりする、そんな感じの廃墟とか廃墟寸前の町が好き、っていう。これからさらに廃れて、崩れ消えていくのを待つだけの町。しかも、荒れ果てて廃墟だったり廃墟同然だったりする建物の裏庭にでっかい向日葵とか多分百合とか鳳仙花でもおkだと思うけど、ばーんとでっかい派手な花が咲いてるのが鮮烈な印象でまた好きだー、みたいな。 以前は、「私」もきれいなものが好きだったんですよ。また引用ですけど、健康だった時の「私」の好きだったところは、以下です。 引用です。 生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄色のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重苦しい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。 引用終わりです。 「丸善(まるぜん)」です。丸善は、でっかい本屋で、京都の四条京極辺りの繁華街にあります。学生が教科書とか参考書を買いに行くと言えば、丸善です。美術書とか文学書とかの専門書がなんでもたいてい揃います。現代では向かいの「淳久堂(ジュンク堂)」と二軒回れば完璧です。専門は専門でもサブカルみたいな方向にちょっと入っていくなら、丸善の向かい側でジュンク堂の数軒隣の「ブックストア談」まで回ればいいです。これで揃わなかったら、もう書店で手に取って選ぶのは諦めたがよろしい、みたいな書店群です。は!本屋の話をしたかったのではないです。だから丸善は、きれいなもの、秩序だってるもの、学校に関係あるもの、あんまり生活に密着した感じでないもの、の象徴みたいな感じが、こう並べて引用すると、しませんか。もっと真面目に言えば、西洋近代文明の象徴としての丸善が不快でならない、ということになります。 ま、上の二つの引用の間には、花火が好きだとかおはじきとかビー玉とかが好きだとか、そういうのもあるんですけどね。ここで言いたいのは、元気な時には秩序と生活感のなさの象徴だった丸善が好きだったんだけど、病んでからは小汚い廃墟同然の町並みにこそ心惹かれるようになっちゃった、ということです。 じゃあ、どのくらい丸善が嫌になっちゃったかといえば、それはもう、爆破して消し去っちゃいたいくらい嫌なんですね、これが。もう一つ引用しましょう。丸善に行って、以前は好きだった自分がそこにいることの違和感が楽しめなくなっちゃってることに気づき、愕然として、棚から何冊も画集を出すんだけど開くだけの元気がなくて(絶対億劫なんだと思うな)出しては積み上げ、そしてはっと思い立って積み上げた画集の上にさっき買って持ってた檸檬を置いちゃう、そしてそのまま丸善を出てきちゃう、その後のことです。 引用です。 へんにくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。 引用終わりです。 丸善、脳内で爆破するくらい嫌なんですよ、もう。そう、かつて好きだったものを嫌いになる時ってこんな感じよね。……ってわけで「私」は、丸善が脳内爆破しちゃうくらい嫌になっちゃって、代わりに今好きなのは廃墟、廃墟同然の町並み、なのです。 最後の引用部分は小説「檸檬」の末尾です。これで終わりです。オチは? そんなのありません。丸善を脳内爆破したって、実際には画集の棚をカオスにして檸檬置いて放置してきただけです。ちょっとすっきりしたけど、病気も借金も学校行ってないのも就職ないのもなーんにも解決してません、オチなんてないんですよ、鬱にはね。 今日は鬱々としてきれいなものから心離れて廃墟好きになっちゃった青年の気分が、現代のネット特にでっかい掲示板サイトとかに廃墟画像スレが定期的に立つ現代に通じるものがあるよね、っていう話でした。ていうか、常に廃墟写真ばっかり集めてる人絶対いると思うし、むしろアレだ、廃墟写真とか廃工場写真とかに萌えて書籍化しちゃった本とかこないだ見た気がする。他にも、廃村とかダム底とか、あと廃駅とか敗戦になった路線とか、「か/ま/い/た/ち/の/夜2」とか、「ひ/ぐ/ら/し/の/な/く/頃/に」とか。 私が最近見た廃墟画像スレのまとめは、例えばこちらなんかがそうです(ttp://suiseisekisuisui.blog107.fc2.com/blog-entry-527.html)。 去年の夏頃のスレみたいですね。廃墟写真には、むしろ実際そこにまだ建ってる廃墟寸前の家屋とかにも、なにか不思議な魅力を感じます。 「檸檬」は1925年(大正14年)1月に、同人誌『青空』巻頭に掲載された短編小説です。梶井基次郎っていう永遠の若者が書きました。なんで永遠の若者っていうかと言えば、梶井基次郎は32歳という若さで亡くなってしまったからです。32歳は若くないなんてことはありません、現代だと若者の部類に入るでしょう、多分。私がその年齢に近づいて来たからそういうことを言うのではありません。団塊の世代がまだ頑張って仕事してるから、その子どもたちであるアラ30はまだ若者、と主張したい、それだけのことです。ていう気分で、32歳の梶井は若者、反論は認める、みたいな。
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