檸檬の重さは魂の重さ。檸檬の大きさは、魂の大きさ。手のひらサイズの魂。萌え。
引用です。
それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
実際あんな単純な冷覚や触角や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を闊歩した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量ったり、またこんなことを思ったり、
――つまりはこの重さなんだな。――
その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
引用終わりです。
果物屋でレモンを持ってみたらすごい〈ちょうどよかった〉から買って出ます。果物屋はフツーの果物屋っていうか八百屋だから、レモンとかはあまり見ないんだけど、もともとレモンは好きなんだけど、何かが来たからレモンを一つだけ買って、冒頭から、というのは「私」の最近にずっと、「私」を苦しめてきた「不吉な塊」が、つまり鬱っとした気分が、すぅっと薄れてゆくのですね。「つまりはこの重さなんだな」っていうのは、何とも言い表せなかった憂鬱が、レモンという、例える物体を、得て、溶けていく様子を表しているのでしょうが、自分の心とか憂鬱な何かとか例えば魂とか、そういうものがレモンという形を得てすっきりしたんですね、多分。レモンは黄色くて酸っぱくていい匂いがするから。そんな感じ。心が軽くなったら、どこまででも陽気に行けるでしょう。京都から、長崎まで。
あぁ、なんかもっと言いたいんだけど、これは感覚でわかってて、それはまた言葉では表わしにくい感覚なんですよぅ。別に梶井に親近感を持ってるわけじゃないんですよ、〈憂鬱な現代の若者〉っていう件以外では。
最初は頑張って一般的な話をしようとか勉強っぽいことをしようとか考えてた読書会ですが、だんだん感覚的な話になってきたので、そろそろこの辺りで終わりましょうかね。あ、檸檬の重さが「私」の魂の重さと一緒って言ったのは、先輩です。勝手に書いてすみません。
五回分読んでくださった方はありがとうございました。次回は宮澤賢治「注文の多い料理店」の予定です。
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