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映画『ショコラ』。
監督は、ラッセ・ハルストレム。
主演は、ジュリエット・ビノシュ。
ついでに、ジョニー・デップ、と、キャリー=アン・モスも出てたみたい。
 
 第二次世界大戦が終わって15年くらい。古い因習に凝り固まったフランスのある村に、舞い込む一陣の北風。それは、赤いローブをまとった母娘だった。娘は母に連れられて旅生活を送っているだけだが、母親の方はキリスト教的断食期の村で魅惑的な(それはもう、実に魅惑的な)チョコレート店を開き、村人を破戒に誘惑する。彼女のチョコレートは「大食」への誘惑だけを武器にしてはいない。彼女はほとんど魔女であり、彼女のチョコレートは中米マヤの呪術的医術に基づいている。店には呪術的人形や道具が並び、彼女は通りがかる人々を店の中へ誘う。
 彼女は戒律的な村人を、一人ずつ彼女のチョコレートの虜にしてゆく。夫に顧みられない淋しい妻には、夫へのプレゼントと称して精力剤のような何かを混ぜたチョコレート菓子を。50年以上も未亡人に片思いしている老人には、想い人へのプレゼントを。娘に嫌われて孫から遠ざけられている偏屈な不良老女(彼女の使う貸店舗の家主)には、心を開くホットチョコレートを。
 
 母親はヴィアンヌ、娘はアヌークという名前だが、名前を伏せて書くとものすごく悪い親子みたい。戒律的で排他的で都合の悪いことは見えないふりをして教会を中心に時代錯誤に連携する村人、を解放する、という、変革をもたらす北風なだけなんだけど。変革はそれを望まないものにとっては悪魔的だからね。
 母娘を排斥したり懐柔されたり受け入れたり、するうちに、村人たちはしだいに心を解放してゆく。ドメスティックバイオレンスを見逃していてはいけないし、恋をしてそれが法的に問題なければ告白すればいい。老人とその孫は仲良くしているのが平和だし、闇雲に何もかもを禁じれば子どもは家出する危険がある。妻が出ていったことを公にしたって、誰もあなたのことを見下したりはしない。人の価値は何を排除するかではなく、何を受け入れるかで決まる、と、最終的に神父は村人を教会から解放する。
 ざっとまあ、こんなような話です。このあらすじみたいな文章ではジョニー・デップが登場してませんが、彼はヴィアンヌが村にとけ込みそうになった時に川を移動するジプシー的な集団のリーダーとして現れてヴィアンヌと仲良くなり、村人の「よそ者は排除しなければならない」という気分を新たにする、そして急進的な輩が彼らの移動手段(かつ家)に火をつけ、彼らは村を出てゆく、のち一人だけ帰ってきてヴィアンヌと結ばれる、みたいなそういう役柄です。
 
 疑問点や問題点は多々あるものの、とてもとても美しくていい映画だと思うのですよ。私はこの映画が大好きです。中盤まで見たところでチョコレート食べたくて仕方なくなるし。素晴らしいよね、おいしいものを過不足なくおいしそうに表現できるって。
 

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久しぶりに更新したかと思ったらイヤな話ですが、今日は「非」っていう漢字の使い方が時々気持ち悪い件について話したいです。前からずっと気になってたんですよ。
 
「非」っていう漢字は、これ一文字でなにもかもを否定されちゃったような気分になる、非常に強い漢字です。あ、この「非常に」もそうだよね、「常でない」とか、「尋常じゃない」「普通じゃない」の「じゃない」って気分を、「非」っていう漢字を使うことで、その強さまで表してる気がしませんか? 「非」だけじゃなくて「無」もそうですし、「否」もそんな気分です。「未」はちょっと優しい気がします。
 
で。今日気になったのは「人非人」っていう言葉です。ちなみにYahooさんの辞書で「人非人」は「にんぴにん」と読み、次のように定義されてるみたいです。
1 人道に外れた行いをする者。ひとでなし。
2 インドの俗神、緊那羅(きんなら)の通称。その姿が人に似て人ではないのでいう。
使う時にはだいたい1の意味で使いますね、姿が人に似てるけど人でないものについて話をすることはあんまりないような気がします。
「人非人」は「にんぴにん」て読むのが多分一般的なんだと思いますが、私としては「ひとでなし」と読みたいです。そっちの方が気分が出るでしょ。
 
さて、「人非人」ですが、この熟語はこのままだとあまりに漢語的です。いや、むしろほとんど漢文です。ですから、「書き下し文(でいいんでしたっけ? 読み下し文? いや、書き下しだった気がします)」に致しましょう。「人ニ非ザル人」ですね。「ひとにあらざるひと」と読みます。
「あらざる」は「あり」+「ず」です。丁寧に言うと、そこにあるとかないとかの「ある」、の古典的な形(古語)であるところの「あり」、の未然形「あら」。と、打ち消しの助動詞「ず」、の連体形「ざる」、の合体した形、で、「あらざる」ですね。
さらに丁寧に説明すれば、「あり」は、打ち消しつまり否定する気分の助動詞がくっつくから、「あり」という言葉を使ってるけど、ほんとは気分的には「まだない」んですよ。だから未然形を使うんですよね。で、「ず」の方は、後ろにさらに「人」っていう名詞(体言の一種でいいんですかね?)がくるから、「体言にくっつく(連なる)形」をとります。や、こんなんなんとなくな気分でいいんですけど、説明できそうな気がしたから、つい。間違ってたらすみません。しかももし受験生の人が見てたらごめんなさい。
この、「あらざる」って、「あり」と「ず」が一緒にいる形だから、気分的には英語の「is not」と同じじゃないですか?
 
さてここで、「あらざる」の意味っていうか気分がわかったところで、漢字に戻りましょう。「非ざる」。
ねぇねぇ、おかしくないですか? 何がって、漢字の「非」は、それ自体で「打ち消し」の意味を持ってるんですよ。それに、さっき確認したところ、「あらざる」は「あら」+「ざる」で、「ざる」の方が「打ち消し」つまり否定を表してるって。つまり、否定の意味を持ってる漢字に、否定の意味を表す助動詞をくっつけた形、それが「非ざる」。変でしょう? 「is not」の「not」の部分だけが送り仮名に出てる形、でも漢字の意味としては「非」が「not」。つまり「あらざる」って、「not not」です。……気持ち悪いと思いませんか? あんまり思いませんか? 私は若干気持ち悪いです。
 
もし、この解釈とか品詞の意味とか漢字の意味とかむしろ品詞分解の仕方とかが間違ってたら、ごめんなさい。打たれ弱い私に、こっそりあるいは優しく教えてやってください。ていうか文自体が意味不明だったらごめんなさい。
 
あぁ、もし万一、間違って紛れ込んでこられた受験生の方がここを見てらしても、あまり文章は鵜呑みにしないで、ご自分で辞書ひいたり先生に訊いたりなさってくださいね。この日記、ごくたまにですけどかぎかっこの話とか文学作品の話とか真面目な言葉を使ったりすることがあるし、今日に至っては品詞分解だとか連体形だとかいう言葉が頻出してますから、絶対に受験生みたいな方は紛れ込まないって言い切れないところがあるのですよね。ていうか、「絶対」なんて、多分どこにもないですもん。……この「「絶対」なんて言い切れることなんかどこにも存在しないもん、絶対」っていう言いようもまた大きな矛盾ですよね、どうかなこういうので説得にかかろうとするやつとか。
 
最後に、「非ざる」の「ざる」はただの送り仮名で、「非」一文字が「あらざる」っていう意味なんだってことはわかって、この話を展開したことをお断りするとともに、万一この文章を読んで混乱しちゃったよって方がいらした場合のために、ごめんなさいって謝っておきます。

 私がちょっとなじめない日本語、パート2をお送りします。今日の私がちょっとなじめない言い回しは「ただでなくても」です。正しくは、「ただでさえ」あるいは「そうでなくても(~~でなくても)」ではないでしょうかね。
 「ただでさえ」あるいは「そうでなくても」の使い方は例えば次のような例です。

1。「ただでさえ(そうでなくても)お馬鹿さんなのにその上頭に辞書をぶつけるなんて(もっと馬鹿になっちゃうわ)」。
2。「そうでなくても(ただでさえ)賢いのにその上辞書を枕に寝るだなんて(もっと賢くなっちゃうよ)」。

 「ただでさえ」という使い方をする場合の「ただ」は、「通常の状態」とか「普通」とか「何もない状態」とか、そういった意味合いです。つまり、「ただでさえ」は、「通常の状態においてさえ」というような意味合いで使われるということです。例1の場合なら、「辞書に頭をぶつけない状態にあってさえも」を表しています。
 「そうでなくても」の「そう」は、「現在考慮されているところの通常でない事態」を指します。つまり、「そうでなくても」は、「その(現在考慮されている、異常な)事態でなくても」というような意味合いで使われるということです。例2の場合なら、「辞書を枕に寝るということをしなくても」を表すことになります。
 つまりね、「ただでさえ」と「そうでなくても」は形は肯定形と否定形という逆の形を取りながら効果はほとんど同じで、「ただ」と「そうでない」はほとんど同じことを意味しているということです。
 で、だから、「ただでなくても」ということは「そうでなくても」でなくても」つまり「そうであっても」を表してしまっているのですよ。つまり、「ただでなくても」は「通常の状態でなくても」とか、「現在考慮されている異常な状態であっても」とかを、表しているということになりますね。
 先ほどの例1の「ただでさえ」に替えてこの「ただでなくても」を入れて、効果を見てみましょう。

1’。「ただでなくてもお馬鹿さんなのにその上頭に辞書をぶつけるなんて(もっとお馬鹿さんになっちゃうわ)」。

 「ただでなくても」は、「「ただ」でない状態」ですから、「「頭に辞書をぶつけない状態」でなくても」つまり「頭に辞書をぶつけている状態であっても」を指すということが分かると思います。この例1’では、頭に辞書をぶつけるともっとお馬鹿さんになる(とこの発話者は言っているのでひとまずそれを鵜呑みにするとして)のですから、「「頭に辞書をぶつけていても」お馬鹿さんなのにその上頭に辞書をぶつけるなんて(もっとお馬鹿さんになっちゃうわ)」と、くどいというか意味の通りにくい文章だということですね。書いていても何がなんだか分からない感じがします。
 要するに「ただでなくても」はなんか肯定するつもりで否定するというか否定するつもりで肯定するというか、そういう、効果の下がる使い方で、つまり間違っているのだということが言いたいのです。それだけなの。
  

051109

 

 今日は「~~にしか過ぎない」という表現が私に気持ち悪く聞えることについて少し。本当にそれだけの話。
 最近よく目に、あるいは耳にする表現ですが、日本語として正しくは、「~~に過ぎない」あるいは「~~でしかない」という形だと思うのですよ。「~~にしか過ぎない」って、ちょっとくどいというか、「大したことない」という表現が文章内で重複してるよねと思うのでした。
 『』と「」の使い分けって、一般的にはどういうものなんでしょうか。私は日本文学をやっている関係上かどうかは分かりませんが、一応日々苦心してポリシーを持って使い分けようとしては挫折しています。
 基本的には、「」の中には、単行本とか雑誌とかのタイトルでない作品名を入れ、そして『』の中には単行本とか雑誌とかのタイトルを入れます。これを「小さい作品名」『大きい作品名』とここで便宜上呼びます。
 たまに短編集的小説作品の単行本で表題作というものが存在することがあります。えーと、本に収録されている作品の一つが本自体と同じタイトルだったりする、あれです。例えば『舞姫』という本の中に「舞姫」と「(忘れましたすみません)」と「ふみづかひ」という三本の短編小説が収録されている場合。これは中の作品を「」でくくり、本自体を『』でくくります。ちょうど今私が上に書きましたように。逆に、同じタイトルが並んでいるのを見た時は、「舞姫」が作品名で、『舞姫』が本の名前なんだなっと、判断するわけです。どうでもいいですがここでいう『舞姫』「舞姫」とは、森鴎外の作品のことを指します。
 小学校で初めて「」と『』の使い方を習った時を憶えていらっしゃるでしょうか。「」は人物が喋る時に使う、『』はその会話文中に出てくる会話文に使う、と、習いました。もう少し敷衍して、「」の中に「」を登場させる時、『』を使う、と。例えば、「昨日、うちの妹が『私今日はとても機嫌がいいの。』って言いましたのよ。」「私、『ケータイ』ってまだ全部の機能を使いこなせないのですわ。」などのように使います。これは、「『』」という序列があるということと、ここでは呼びます。
 上にあげた二つの使い方、つまり、「小さい作品名」『大きい作品名』という使い方と、「『』」序列を尊重するという使い方、ですが、たまに困る時があります。会話文の中に小さい作品名を登場させる時にはどうしたらいいんだ、ということです。先にあげた使い方では、『』の中にある作品名に別の作品名が出てきた時には「」を用いますから、「『』」という序列(というのもおかしいですが)が存在しません。『川端康成「雨傘」の解釈』(そんなタイトルの書物は存在しませんが)とか、アリです。しかし、「『』」という序列に従って文章を作っている時、会話文の中に小さい作品名が登場した時にどうしたものか、迷います。「「舞姫」読みまして?」では「『』」という序列を壊しているし、「『舞姫』読みまして?」では、本を指しているのかその本の中の作品を指しているのか、字面からは見当がつきません。
 だから私は、普段はもう「『』」という序列をないものとすることにしています。つまり、「小さい作品名」『大きい作品名』に準拠しているということになります。先に習ったのは「『』」の序列を大事にすることだったので、若干心が痛みますが、仕方ないですね。
 これが、苦心した末の妥協で、毎回「」や『』を登場させようとする度に考えては妥協します。


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