梶井基次郎の「檸檬」は、細かいものをつらつら並べるっていう書き方をところどころでします。これがね、印象派っぽい感じです。
私は絵画史とか美術史とか学校で詳しく勉強してないしいまいちよくわかってないのですが、印象派は、写実的でない、光を捉えて描く、明るくてきれいな色遣い、風景画、みたいな記憶があります。また、絵具を混ぜて色を作ってぺたっと塗るのじゃなくて点々と並べて塗って遠くから見ると混色されてる、みたいな印象がもっとも強いです。クロード・モネ「睡蓮」とか「印象・日の出」とか、あとセザンヌとか、の印象です。他にもいろいろあって、上に書いたところに終始するものじゃないですけど。
丁寧に説明すればするほど自分の言うことに自信がなくなってくので、適当にお茶を濁して、「檸檬」に戻りましょう。突っ込まないでください。まし。
いろんなものをつらつら並べてかいてあるところが素敵。光とか色とかの描写が素敵。そんな話でした。次から引用です。前から順に行きましょう。
以下しばらく引用です。
1.花火が好き。
私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様をもった花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火と一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆った。
2.ガラスのおはじきとか南京玉が好き。
それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。
3.前はね、丸善が好きだったの。
生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄色のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。
4.街のいろんなもの。
そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留まったり、乾物屋の乾蝦や棒鱈や葉湯を眺めたり、
5.果物屋!
その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を医師に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはりおくへゆけばゆくほど堆高く積まれている。――実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴しかった。それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか。
6.真っ暗な街角に建つ果物屋ラブ。
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑やかな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが瞭然しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。
7.暗い中にそこだけあかるい果物屋ラブ!
そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。
8.画集を積んでみるよ。
私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
9.檸檬乗せて完成だよ!
その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
引用終わりです。
きれいなものを並べたりとか形容詞的な言葉を並べたりするのは、雰囲気が出ていいですよね。暗い中にきらきら光る何かがあるのは、この時代に小説書いてる人の特徴なんでしょうかね、関係ないでしょうかね。どうしても谷崎の「陰翳礼讃」を思い出すんですよ。薄暗い行燈で黒い漆塗りのお椀の蓋を取るとぴかぴか光る米粒が、美しい、みたいな描写と、妙に暗い寺町通の角にある廂の低い果物屋の黒い漆塗りの台の上に並べられた果物が、美しい、みたいな描写には通じるところがあると思うんですよ。誰でもなんじゃない? っていう気もしますけど。
あと、やっぱり光ですよ。「店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛」とか、きらっきらですよ。きゅんっとします。
「ガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしま」うとかも。しかも「カーンと冴えかえ」るとか。きれいじゃない? あんまり陽光燦々みたいじゃない一種薄暗い書店で、重い暗い画集を積み重ねて上に乗せたレモンの鮮烈な黄色。まさに「カーン」って音がしそうな色ですよ。そりゃ爆発しそうに見えるよ。
つらつら並べるっていう表現技法は何も印象派を引き合いに出してこなくてもきれいだし感じが出るとは思うんですよ。でも色の名前出して細かく万華鏡みたいな表現にされちゃうと、どうしても印象派を思い出しちゃうのでした。やー、楽しいね、「檸檬」。だんだん、日を追うごとに、好きになっていく気がします。昔そんなに好きでもなかったんだけどな。年取ったかな? それとも中二病再発ですかね。
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