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「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
……という和歌があります。細かい文法とか技術とかはとりあえずこっちに置いておきましょうかね。ちょっとだけ言えば、「せかるる」は「割かれる(さかれる)」で「あはむとぞ思ふ」は「逢おうと思う」を「ぞ」で強調して「必ず逢おうと思う」みたいな感じです。意味は次のような感じです。 「川の流れは速いから、急流は岩に堰き止められて二方に別れてしまう。でもちょっと下流に行けばまた一つに合わさるように、今は別れてしまう二人だけど、将来必ずまた一緒になりたいと、思う」。みたいな。「逢はむ」でなぜ「一緒になる」という訳になるかといえば、この歌が詠まれた当時、「逢ふ」とは、「夜に逢う」「エッチする」つまり「結婚する」というような意味を持っていたから、ですね。 上の句全体が「われても」を導く序詞らしいです。つまり、言いたいことは後半で、前半はその後半を美しく持ってくるための飾り。なるほどね。「滝川の」の後ろに「ように」とつければ、そんなに難しくは思えなくなる歌ですね。 でね、この歌なんですけど。どうにも悲しく、後に一緒になれない印象がしませんか? 私はどういう背景でこの歌が詠まれたのか知りませんからそんな印象を受けるのだと思いますが。アレですよ、フラグに見える、のです。「フラグ」というのは……例えば「「必ず帰る」と言って出征した軍人さんは帰ってこない」とか「「一年で帰る」といった夫は七年経つまで帰らなくて妻は待つ間に死んでしまった」といったような。 物語の経済とか類型とかからして、強い決意、というのは必ず破れる、という風に決まっているような感じです。とか思うと、あの世では必ず、とか生まれ変わったら必ず、とか、そういう決意に見えてきませんか。 「今は別れても将来きっと一緒になろうと思う」という強い気持ちというか決意というのは、絶対逢えない、二度と逢えない、の前振りになっているように見えるのです。二人の行く先はもう違えられてしまった、今日を最後に、二人が逢うことはもうない、でも、別れたくない気持ちは確かにここにあって、せめて言葉だけでも、また逢えると、言いたい。そんな気持ち。「違えられて」は「たがえられて」と読みますし、「ここに」は「心に」みたいな。 この歌を詠んだ崇徳院が気の毒な人だからそう見えるのかな。崇徳院は、子どもの時からお父さんに疎まれてた気の毒な感じで、即位してからも上皇になってからも気の毒ーな感じでしかも後に弟に讃岐に流されてそこで頓死したのちは早い時期から怨霊化するという気の毒ーーな人生を送った人です。配流になる直接の切っ掛けになった事件は「保元の乱」です(多分)。平清盛とか源頼朝とか出てくる頃の源平の争乱の直前というか前段階というか、そんな時代。 時期的に、この歌と配流になったのとは関係ないみたいですけど、900年もあとから見てると、セットになって見えてきたりもして、や、普通に幸せそうーな歌だってあるでしょうけどね、崇徳院て言えば気の毒で「瀬をはやみ」の人、みたいな。 「瀬をはやみ」の歌は、「小倉百人一首」の77番です。「小倉百人一首」以外では、「詞花集」恋上に入ってて、229番なんだそうです。これらの情報はこちらのサイトさまを参考に致しました。勝手にごめんなさい。 「小倉百人一首」(http://www.good-land.com/index.html) あと、「必ず帰る」と言ったのに帰らなかった軍人さんは、例えば「銀河英雄伝説」のケンプ上級大将とか、「はいからさんが通る」の伊集院忍少尉とかがそうです。前者は妻子に、後者は婚約者に宣言して出かけ、戦死します。あ、伊集院忍さんは後に記憶喪失になって帰ってきますけど。「一年経ったら帰る」と言って都に働きに行った夫は、『雨月物語』「浅茅が宿」の夫です。七年経ったら帰ってきます。一応ネタばれくさいので下に置いてみました。 PR
長い小説や短いけどファンフィクションみたいなものを書いてる人にお訊きしたいんですけど。書いてるうちにキャラクタが崩壊してきませんか? えぇと、だんだんもとのキャラクタとかけ離れた思考や言動をさせてしまう時がないですか? その後別のキャラクタでお話を考えて、またそのキャラクタに戻ってくると、ちょっともとのそのキャラクタに戻ってるけど、しばらくそのキャラクタで書き続けてるとまた崩れてくって。素人だから? そうかもね。でも、プロの作家の方々だってたまに「キャラが独り歩きして」とか「キャラが勝手に動きだして」とか「筆が滑って」とかっておっしゃってるし、これってキャラ崩壊の一種じゃないですかね。違いますかね。どうでしょう、キャラクタを動かして小説やファンフィクションを書いてる方々。私は最近いろんなキャラを崩壊させてます。たまに悪夢的なものを見て(えっと、比喩でなく文字通りです)ビビります。
これまでも日記で「千と千尋の神隠し」の話を時々してきましたけど、今日からちょっと違う立場で、話を進めたいと思います。今までの話っていっても大した話はしていませんが、近いうちに整備して見られるようにいたしますね。
千尋の元いた世界じゃなくて、油屋をひとつの共同体として見てみようという目標をもって今後しばらく活動したいと思います。ということで、また毎日「千と千尋の神隠し」見てます。 どういう話をしたいかといいますと。 だいたい今までは、千尋がいくつかの境界線を越えて「あちらの世界」に行って帰ってくる、というのを前提に話をしてきたと思います。みんなそうだし私もそうです。や、見たことないだけで逆向きもあったのかも知れませんけど。なので、これから、逆方向の話をしたいと思います。 油屋はひとつの共同体です。湯婆々が中心で、周囲の人物もそれなりに役割がある感じで。それで、油屋の周りには幾重にも結界が張りめぐらせてあります。まず、表の橋がそうです。それから、食べ物屋ばかり並んでる繁華街の向こうに川を流してあります。昼間はちょっとしか水流してないですが。それからちゃんと門を作ってあります。門の外にもいくつものラインが引いてあり、アイテムが置いてあります。だいいち、門に向かう道自体が木の陰に隠してあります。 千尋と両親は、それらの結界を次々と破って油屋の共同体に入り込んでくる、侵入者なのです。 ……というような話です。 また、千尋は、油屋の中にまで入り込んで、秩序を破綻寸前にひっかきまわします。その秩序を破壊するのが油屋にとってよかったか悪かったかはまた別の話として、千尋は外から侵入してきて内側をかきまわして去っていく異人に他なりません。 この話をするにあたって、ちょっとまだよくわかんないことがあります。世界の内側とか外側とかの話です。 油屋は中心です。内側というよりむしろ中心です。千尋が元いた世界は外側です。周縁というか、外側です。川の辺りからトンネル(門)、脇道、アスファルトに舗装される直前とか「石の祠」(神さまのおうち)辺りが周縁部かな。アスファルトに舗装されてる辺りはもう外側ですね。 で、わかんないのは、神さまとかがいるのはじゃあどこよ、っていうところです。 神さまはトンネル通ってくるわけじゃないよね、だってあれ人間用に見えるもの。だからって中にいるとも思えない、だってニギハヤミコハクヌシ(昔のハク)は千尋と物理的に接触してて人間のいる世界にいたっぽいもの。 今のところ、私は、この世界は平面が二枚かちょっと立体でできていると思ってます。 平面が二枚っていうのは、油屋―人間の世界っていう内と外の構造を持つ平面と、神さまの世界ーっていう平面が上下に重なってて(CDとかを二枚重ねた感じね)、行き来が可能な、というイメージで。 立体というのは、CDの表面と裏面みたいな。表は油屋―人間の世界、裏は神さまの世界、みたいな。あるいは、油屋―人間の世界ていう平面の真ん中辺に漏斗をくっつけた、みたいな。 この話の至る先はまだあんまりはっきり見えてませんけど、どこに落とそうかと。油屋が変革されてく、って話をすることは確かでしょう。それから、それが少女の力による、という話もしなければならないでしょう。別に特にイヤとかはないんですよ、少女の力とかっていうの。ただ千尋が劇中で初潮をみたっていう説にだけは真っ向からいくつもの理由をあげて立ち向かいます。そのうち別の話としてこの初潮の話したいですね。若干キモいです。 大したことは言いませんけど、まとまったら話の続きをしたいと思います。 ちょっと問題ができたので、今日から日記をこちらに移行します。
テストだよ。
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